4月の実験音楽リサイタル

■[4月29日(水祝)] at 八丁堀 七針 http://www.ftftftf.com/

実験音楽リサイタル DUO企画』

出演 :

加藤裕士(electronics)
http://hrshkt.exblog.jp/

黒澤勇人(guitar)
http://www.myspace.com/ongakukoubo

齊藤僚太(guitar)
http://www.myspace.com/ryamamma

高橋優(computer)
http://d.hatena.ne.jp/ubunanna/

guest

康勝栄(guitar)
http://www.katsuyoshi-kou.net/

本田琢也(contrabass)
  

石川亮(拡張映画)
http://www.myspace.com/ishikawaryo

高橋洋成(guitar,bass,drum,etc)
http://www.myspace.com/tropicalyosei

当日はくじ引きでゲストがそれぞれ実験音楽リサイタルメンバーの一人とDUOを組む形式になります。

くじ引きや順番は当日イベントスタート時にお客さんの前で選びます。

open/start  19:00/19:30

1000円

3月29日

思い出を書き記す。

高橋優 + 石川亮(guest)「Speaker of the Livingdead」
インスタレーション的な作品だが、何の説明もなくただ在るので誰も状況を理解することができない。開場時間の19時から開始し、開演時間の19時30分をまわって40分ぐらいに終了。発表の形式とか理由付けをことごとく無視した作品をまえに鑑賞者はただポップコーンを食べることしかできない。スピーカー自体を演奏する高橋くんという光景はこのイベントではおなじみのものになったが、これに対し宇波拓さんや梅田哲也さんなどのやっていたことを引き合いにだしてなんだかんだ言うことは完全にお門違いだ。意味をもたずにただそこに存在しているだけのものとしてのLivingdeadなSpeakerども。

加藤裕士「Solo Improvisation」
がんばりました。

齊藤僚太「小作品をいくつかやります」
ヴァンデルヴァイザー派をはじめとする作品群を鑑賞する人間の心理状態について考察する作品。齋藤くんは日常における些細で見過ごされてしまう様な現象を、音や音楽に置き換え捉え直す作曲作品を主とする。しかしここでいきなりヴァンデルヴァイザーが出てくることにおもしろさがある。ヴァンデルヴァイザー派などの作品に日常的に触れている人間がどれだけいるのだろう。このことによって、日常という概念そのものが歪んでいき、そもそも自分たちが感じている日常とは一体何ぞや、という問題にむかうという展望が見えてくる。齋藤君自身がどう考えているかわからないですが。ちなみにあらゐけいいちのマンガは買ってません。

黒澤勇人 + 梶原一絃(guest)「Duo Improvisation」
3人のパフォーマンスが終わり、きょうもひどいことになった…と誰もが思っていたところに現れた希望の光。黒澤くんとフルートの梶原さんとの即興演奏。とても丁寧に時間を紡いでいく。2人の感覚が似ているのかな、ゆっくりと一歩ずつ歩いていくような演奏でした。もしかしたら4月に(リサイタルではないが)再演かも?音楽としてのクオリティがどんどんあがっていきそう。

総括
各人の方向性ははっきりしているが、イベント全体として訳がわからない。おもしろすぎ。次回もがんばりましょー!

加藤

三月の実験音楽リサイタル

■[March 29 3月29日(日)] at 八丁堀 七針(http://www.ftftftf.com/02_0.html

実験音楽リサイタル』(http://d.hatena.ne.jp/jikkenongaku/)

出演 :

加藤裕士:「solo improvisation」

http://hrshkt.exblog.jp/

黒澤勇人 梶原一紘(guest) duo

http://www.myspace.com/ongakukoubo
http://kkaji.exblog.jp/

齋藤僚太

http://www.myspace.com/ryamamma

高橋優 石川亮(guest): 「Speaker Of The Livingdead」

http://milky.geocities.jp/ubunanna/top.html

http://www.myspace.com/ishikawaryo

open/start  19:00/19:30

1000円

2月の実験音楽リサイタル(近日!!) 

■[February 16 2月16日(月)] at 八丁堀 七針(http://www.ftftftf.com/02_0.html

実験音楽リサイタル』(http://d.hatena.ne.jp/jikkenongaku/)

出演 :

加藤裕士:「時間を止める魔法についての23のパラグラフ 8」

http://hrshkt.exblog.jp/

黒澤勇人

http://www.myspace.com/ongakukoubo

齋藤僚太

http://www.myspace.com/ryamamma

高橋優:「サラ、メンケン、キリスト、そしてベートーヴェン、そこには男と女とピアノがあった」

高橋優 荻原彩(guest) 三澤祐太(guest) 石川亮(guest)

http://milky.geocities.jp/ubunanna/top.html

open/start  19:00/19:30

1000円

Re:1月30日の黒澤勇人作品「未定」について

というわけでどこまでちゃんと書けるかわかりませんが、
三つ前の高橋君のエントリー、
自分の作品に対してのものの返答文を。
そのエントリーはその日の詳細なレポートにもなっているので
どういうことが当日あったか、
というのがよくわかって良い感じです。
以下は来た人か高橋君のを読んでないとわからないやも。

まず曲のスタートが
1:00からだったのですけど
0:00秒から始まった人もいたと言うこと。

ストップウオッチなしである程度の人数で同じ時間軸で演奏できるように
時計を持ってきたのですが、
ストップウオッチの0:00から始める様ではなく
その時の時刻に加算して考えていくことが必要になった為、
ちょっとややこしくなってしまったのかもしれません。

この曲自体は
ミュージック・コンクレートや
サンプリングミュージック的な
面白い音を鳴らしていく、という観点か、

加藤君の表現にあるような
時間を聴くような、演奏としての無音を
多くしていくか

この二つの間で揺れておりまして、
今回の楽譜自体は若干沈黙寄りにしてあったと
思うのですが、
この日0:00分状態にも音が入っていたのを聴いて
これで今回はサンプリングミュージックに
近づいたなと思いました。

それぞれの音がずれ、
音が鳴ってない瞬間が少なめになったので。


とは言っても書いている途中で思い出したのですが
この曲はもともとストップウオッチを使った曲や即興の
時間感覚をお客さんにも体験してもらって、
そうすることでこういう演奏を聴く時の面白さにも
気付いたりしないだろうか、という目論みで
作っていたようだった気がします。

そうすると音数多くというのは
あまり得策ではないかも知れません。


後は・・なんだろう、
そうだ、
なんだかんだと
皆が電子音を出せる楽器または音具を
常に持っているという状況は
結構かつてない状況という気もします。

ハーモニカを好きで常に持ち歩いている人は
いるかもしれないけれど
全員が持ち歩いているかというと全然別な話しだし。

今の時代になったからできるもの、という気がしております。


とはいっても携帯自体皆が持っているかというと
別な話で
自分が演奏に参加しない
観客の立場に立つのは
もし携帯を持ってない人が何人かいた場合
安全弁のようなものとして働くのかもしれません、
これは後付けになりますが。


とりあえずこんなところで、
思いつくまま書いてしまったので
また何かあったら追加します〜。


黒澤

『音楽ではない音楽』

高橋君の文章はとてもわかりやすくていいです。今後黒澤君による曲解説もあるだろうし、このブログ上でも意見交換していけたらおもしろいですね。

さっそくですが僕も文章をアップしてみようと思います。といっても主に自分の考えていることなのですが・・・。どんだけ自分好きなんだと思われるかもしれませんが、いろいろあった方がおもしろいんじゃないかと僕は考えています。

                                                                                                        • -

僕は即興演奏をしたり、作曲をしたりしている。そういった行為によって僕は一体何を求めているのだろうか。音を素材に何らかの作品を作るのであるが、そもそも音とは何であるか僕は知らない。多くの人は音楽とはドレミファソラシドから成り立っていて、それらがある規則にのっとって構成されているものであると考えるだろう。しかし、この世に存在する音のすべてがドレミファソラシドであてはまると思っているかというとそれは疑問である。絶対音感なるものも存在するが、これはひとまず置いておく。
では楽音以外のノイズを音楽に取り込んでおけばいいのか。しかし事はそんなに簡単ではない。今となっては音楽のなかで楽音以外の音が鳴っているのはごく当たり前だ。むしろ、そういったノイズも「かっこいいじゃん」とか「気持ちいいじゃん」という感覚によって従来の音楽に上手に取り込まれてしまっているということが問題となるのではないだろうか。音楽を聞いて感じる「自然な」感覚を信じきってしまうのはいかがなものかと思う。
この感覚は「音楽とは何かある事柄を表現するものである」とする考え方の基になっている。つまり、切ない雰囲気の音楽は、「切なさの感情」を伝達するツールとして機能しているので、僕たちは「切なさ」を感じることができる。音という存在の「記号」が、ある「意味」と1セットで組み合わされている状況があるのだ。こう考えると、「記号」から「意味」を剥ぎ取った純粋なものを志向するようになるが、それにはやはり程度があり、完全に純粋な状態を現出させることができるのだろうかという疑問がある。完全に純粋ではない以上、そこでは両者の接続はなされたままである。では、コラージュ。注目するべき点はここであり、さらに躓いてしまう点もここである。
音楽の効果を極度に大量に圧縮して、その結果としてすべての意味を無効にしてしまうというコラージュの狙いはとても魅力的だ。しかしそれだけに、音そのものはとてもぞんざいに扱われてしまう。意味を大量に積み重ねるだけならば、その積み重ねられるものの1つ1つは何であっても同じだからだ。情報の圧縮だけに目を向けていて、何でもありになってくるとだんだんその行為に飽きてくるのが関の山である。また、情報の圧縮のなされ方の美に重点をおいてしまうとそれは結局、ある1つの美しさという意味の追求になってしまい、「記号」と「意味」の1対1の関係はまた復活する。
僕たちが考えてみなくてはいけないのは、音(記号)の意味を解読するための変換回路を1つではなくていくつも同時に起動させるということなのかもしれない。コラージュをしようとする時に記号と意味との関係に無頓着でいると、自分とは異なる他者との融合というあまりにも単純なものになってしまう。両者の関係に注意を払いつつも、組み合わせを複数見いだせるような柔軟な感覚が重要である。記号とその変換回路の複雑さは、そこから導き出される意味をも複雑で豊かなものにするのではないだろうか。
さらに、このように考えていくと、「音楽」という記号にも注目してしまう。この記号は何か別の意味を発生させる変換回路をもっているだろうか。言葉を変えて言ってみると、作品をつくるために「音楽」は一つの要素であると考えられるのではないかということである。もちろん「演劇」や「美術」と融合しようということを言いたいわけではない。そういった固有名詞同士の融合ではなく、演奏したり作曲したりする際に、言葉にはできないながらも何か別の次元の要素も共存しているという状態はとても魅力的であろう。
と、ここまで述べてきたが、では具体的には一体どのような作品なのかとみなさんは思うはずだ。僕はそれを「実験音楽リサイタル」を通して提示していきたいと考えている。この催しは僕1人でやっていくわけではなくて4人がそれぞれ独自の作品を発表していく。それを通して、「加藤裕士」という記号にも雑多な変換記号が絡みついて、この記号が分解していくということが起きたらとてもおもしろい。「実験音楽リサイタル」場そのものがどのように変容してしまうかまったく予想がつかないので、ぜひ足を運んでいただきたいという気持ちがある。

加藤裕士