『音楽ではない音楽』

高橋君の文章はとてもわかりやすくていいです。今後黒澤君による曲解説もあるだろうし、このブログ上でも意見交換していけたらおもしろいですね。

さっそくですが僕も文章をアップしてみようと思います。といっても主に自分の考えていることなのですが・・・。どんだけ自分好きなんだと思われるかもしれませんが、いろいろあった方がおもしろいんじゃないかと僕は考えています。

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僕は即興演奏をしたり、作曲をしたりしている。そういった行為によって僕は一体何を求めているのだろうか。音を素材に何らかの作品を作るのであるが、そもそも音とは何であるか僕は知らない。多くの人は音楽とはドレミファソラシドから成り立っていて、それらがある規則にのっとって構成されているものであると考えるだろう。しかし、この世に存在する音のすべてがドレミファソラシドであてはまると思っているかというとそれは疑問である。絶対音感なるものも存在するが、これはひとまず置いておく。
では楽音以外のノイズを音楽に取り込んでおけばいいのか。しかし事はそんなに簡単ではない。今となっては音楽のなかで楽音以外の音が鳴っているのはごく当たり前だ。むしろ、そういったノイズも「かっこいいじゃん」とか「気持ちいいじゃん」という感覚によって従来の音楽に上手に取り込まれてしまっているということが問題となるのではないだろうか。音楽を聞いて感じる「自然な」感覚を信じきってしまうのはいかがなものかと思う。
この感覚は「音楽とは何かある事柄を表現するものである」とする考え方の基になっている。つまり、切ない雰囲気の音楽は、「切なさの感情」を伝達するツールとして機能しているので、僕たちは「切なさ」を感じることができる。音という存在の「記号」が、ある「意味」と1セットで組み合わされている状況があるのだ。こう考えると、「記号」から「意味」を剥ぎ取った純粋なものを志向するようになるが、それにはやはり程度があり、完全に純粋な状態を現出させることができるのだろうかという疑問がある。完全に純粋ではない以上、そこでは両者の接続はなされたままである。では、コラージュ。注目するべき点はここであり、さらに躓いてしまう点もここである。
音楽の効果を極度に大量に圧縮して、その結果としてすべての意味を無効にしてしまうというコラージュの狙いはとても魅力的だ。しかしそれだけに、音そのものはとてもぞんざいに扱われてしまう。意味を大量に積み重ねるだけならば、その積み重ねられるものの1つ1つは何であっても同じだからだ。情報の圧縮だけに目を向けていて、何でもありになってくるとだんだんその行為に飽きてくるのが関の山である。また、情報の圧縮のなされ方の美に重点をおいてしまうとそれは結局、ある1つの美しさという意味の追求になってしまい、「記号」と「意味」の1対1の関係はまた復活する。
僕たちが考えてみなくてはいけないのは、音(記号)の意味を解読するための変換回路を1つではなくていくつも同時に起動させるということなのかもしれない。コラージュをしようとする時に記号と意味との関係に無頓着でいると、自分とは異なる他者との融合というあまりにも単純なものになってしまう。両者の関係に注意を払いつつも、組み合わせを複数見いだせるような柔軟な感覚が重要である。記号とその変換回路の複雑さは、そこから導き出される意味をも複雑で豊かなものにするのではないだろうか。
さらに、このように考えていくと、「音楽」という記号にも注目してしまう。この記号は何か別の意味を発生させる変換回路をもっているだろうか。言葉を変えて言ってみると、作品をつくるために「音楽」は一つの要素であると考えられるのではないかということである。もちろん「演劇」や「美術」と融合しようということを言いたいわけではない。そういった固有名詞同士の融合ではなく、演奏したり作曲したりする際に、言葉にはできないながらも何か別の次元の要素も共存しているという状態はとても魅力的であろう。
と、ここまで述べてきたが、では具体的には一体どのような作品なのかとみなさんは思うはずだ。僕はそれを「実験音楽リサイタル」を通して提示していきたいと考えている。この催しは僕1人でやっていくわけではなくて4人がそれぞれ独自の作品を発表していく。それを通して、「加藤裕士」という記号にも雑多な変換記号が絡みついて、この記号が分解していくということが起きたらとてもおもしろい。「実験音楽リサイタル」場そのものがどのように変容してしまうかまったく予想がつかないので、ぜひ足を運んでいただきたいという気持ちがある。

加藤裕士