1月30日の黒澤勇人作品「未定」について

1月30日の実験音楽リサイタルでの黒澤勇人くんの曲は面白かった。なにが面白かったかの言及の前にまずはその黒澤勇人作品の概要についての説明。事前に前回の実験音楽リサイタルでの告知でも伝えていたが、お客さん(と言うかその場にいた黒澤くん以外の人全員)参加型の作品で、お客さんは黒澤くんが配った発音する時間の指定と軽い概要が書いてあるスコアの指示にしたがって携帯電話を使い演奏に参加するものである。発音する時間の指定は長いもので20秒。短いもので1秒と言うもの。発音する音の種類に関しては特に指定はなく携帯電話の音であればなんでもよくお客さんは着信音やボタンの操作音等を出していた。なんでも良いのであれば携帯電話を壁や床で擦った音、叩くや壊す等の打撃音もありか…なんて思ったが黒澤くん本人は発音された音の種類、音色の面にはこの作品の着眼点を据えて無いように思えた。まああまりそう言うことはお客さん達も気にしていない様子で、曲が始まる前に黒澤くんの概要や説明などが行われてた時にはお客さん達は皆発音する着信音や着メロ選びに夢中で黒澤くんの話しはそっちのけできゃぴきゃぴしながら「この音はどお?」「俺あんまり着メロもってないからなあ」「これパフュームだよ」なんてはしゃいでいるように見えた。そして曲が始まる。スコアには4パートの発音する時間の指定がありそれは任意で決められる。今、そのスコアが手元に無いので詳しくは伝えられないが確かどのパートも1:00が最初の発音であったが、黒澤くんのスタートの合図で皆0:00のところで殆んどの人が音を出した!初っぱなのミス。黒澤くんはこれをどう思ったのか聞くの忘れた。本当はもっと黒澤くん本人に言及して貰ったうえで黒澤くんの言葉を踏まえて色々書けば良かったとこれを今、書いている時点で気が付いた。もしかしたら順序が逆になるかも知れないがこれを読んで黒澤くんが言及してくれるかもしれない。さて話しは曲に戻る。前記したとおり発音の時間が20秒や1秒と細かく秒単位で指定されている。黒澤くんはスタートのタイミングで時計のタイマーを押す。時計と黒澤くんの回りには何人か人が居て、僕が座っている場所からは時計が見えないので、隣で斎藤遼太くんが黒澤くんと同じタイミングでストップウォッチを押していたのでそれで時間を確認。最初の発音のタイミング以外は4つのパートは満遍なくバラバラに発音される様になっている。曲が進行していくにつれ誰がどの音をというほどの正確な判断ではないが携帯電話の機種特有の音質の違いくらいは分かるようになり、自分と同じパートを選んだ人の音ぐらいは分かるようになっていた。そう言えば中には時計を見ず半ば体内時計で時間を計っている様な少しズレを孕んだ発音をする人もいた。曲事態は短く7、8分くらい。4パートの全ての音は6分ちょっとで全ての指定された発音は終わる。その後1、2分間沈黙があり、時計が終了のアラームを告げ終了。と当日の黒澤くんの曲が演奏されている時の状況を述べてみたが、演奏中黒澤くんだけは音を出していなかった。基本的な指示は事前に配られたスコアと口頭の説明で十分理解できるもので、後はスコアと秒単位のわかる時計やタイマーを見つつ発音すれば出来るもので、演奏中特に黒澤くんは指揮者の役割に回る必要は無い。というか実際黒澤くんは指揮者の様な振る舞いはなく皆と同じくスコアと時計は確認していたが発音はしていなかった。僕が気になった点はここで黒澤くんが作曲者なのに一番リスニング環境が客観的な立場である。否、それはどうか。作曲者だから一番先入観がある立場でもある。だかその先入観の矛先にも色々あるだろう。この作品が何をもってどの様な志向の曲であるのか。前記した事から考えてみればまずスコアには概要の説明と発音する時間の指定がしてあり、音色に関しては特別に指定はない。そう考えれば、黒澤くんの曲の志向は時間に置ける構成が主体であるように思える。この時間構成が始めに指定されている場合ある程度の曲の具体像は安易に想像出来る、と言うかコンピューターなどで一人でも演奏は出来る。しかし黒澤くんはここで時間構成のみではなく別の要素も持ってきた。それは4パートの発音する時間の指定であり、お客さん等の参加者はこの4パートの内どれか一つを選びそれを演奏する。任意で選ぶので当然ながらこの部分は予測が難しくなる。それてその発音する音色選びに関しても指定は無いことは何度も前記しているが、この二つの要素が加わることでこの曲はある程度の不規則性を孕める。これは単に曲に可変性を加えるために取り入れられた要素なのか?それとももっとシンプルなものでインタラクティブなものがやりたかったのか?そう考えれば時間構成は単なるルールの様なハードとソフトにおけるソフトの位置にも思えてきた。混乱してきた。これはやはり黒澤くんの言葉が必要だ。とにかくなにがソフトでなにがハードであってもこれを演奏というパフォーマンスで捉えると黒澤くんはここには自身のみ参加してないのである。という面でやはり黒澤くんはパフォーマンスを見る(聴く)立場に回りそれ以外の人はパフォーマンスを(演奏)する立場にすりかわる。パフォーマンスをする側に回るとスコア(指示)通りに発音するという作業が加わりその分、多少なりとも全体としてでている曲に対する視聴が、所謂ライブを見るという受信と送信の構図が変わってくるのではないだろうか。ライブを見るという受信側の集中が演奏を聴くのみに主体が絞れるのに対し、この曲は同時に演奏する事への集中も必要になってくる。この作業はライブに置ける送信する側ではないだろうか。普通のライブでも演奏する側は自分(たち)の出してる音を聴きつつ演奏している。それを見る(聴く)黒澤くん。これは立場が逆転している。だがお客さんと演奏者が垣根を越え超越的環境になっているわけでは無いように思える。垣根を越えた超越や交わりではなく、反転である。あらら、見に来たのに見られている。人間が動物園に動物を見に来たのに逆に動物に見られているという絵本があったがそれを思い出した。しかしこの環境の提示によって見に来た人は演奏への参加者となり否応なく作品との関係性を持たされる事により曲の構造を認識せざるおえない状態に陥る。それは難解さから緩やかに回避し曲の構造を時間の経過と共に流れるように理解を得ながら認識できるウェットに富んだシステムに思えてならない。そこが実に面白い。


高橋優